RZ50からR1-Zへ
2年が経った。
私は今日も生きている。
病気とうまく付き合えていないようで
薬の副作用による軽度の白内障
皮膚に見覚えのないシミ
大腿骨頭壊死を抱えた。
もう少し早めに記事を書きたかったが
なんせ忙しい日々だったので
手術前のいまに至る。
前回の記事を書いたころから写真はさかのぼる。
YAMAHA R1-Z 初期型1990年式 事故車
こうみえて全部だめ。
薬の調整は難しいらしい。
3年たっても薬は安定しない。
生活も安定するはずもない。
今は手術まで仕事を休んでいる。
西日本豪雨で旧職場は完全水没を果たした。
撤退していたらしいから良かったものの、
私が旧職場に復帰していたら資材機材、全損だっただろうな、、、
個人に対する興味ってものは他人であればあるほど長く持たない。
されど病気ってのは他人どころか自分でも飽き飽きしてくる。
社会はいつまでも弱者でいさせてくれない。
人間は仲良くなれないのが普通なんだ。
バイク人生歩んできてだいぶ絶望した。
健康でないとバイク友達はできない。
2年目にして諦めた。
自分にはだめだった。
去年は右足の大腿骨頭壊死の手術で人工股関節になった。
半年くらいで違和感はなくなった。
来週は左足。足は二本。
人工股関節でも摩耗で数十年後に交換手術があるらしい。
体重は軽いほうが良いらしい。私はR1-Zの半分くらい。
2ストにしても人間にしても平均より少し重い。
RZ50のオイルポンプはホントに分解できなかったが
R1-Zのオイルポンプは簡単にOHできる。調整も容易だ。
良いバイクだ。互換性があるのは。
RZ50でしかまだ行ってない場所がまだいくつか残っている。
最近その思い出を辿るのがたのしい。
ヘルメットの中で歌う曲に懐かしみながら。
RZ50はミニバイクとしてのカスタム性を全うした。
たしかこれはパルス入院をしてた時ぐらいの写真。
何回入院したか忘れそうになる。
でも、かっこいいでしょ?
ミッションオイルを吸い込んでいるようだったのでシール交換をした写真。
今の自分ならここに1KTのミッションを投入したい。
RZ50はボアアップした、乗る頻度が減ったので壊れない。
仕事がいそがしい。そういう時期なのだろう、またのるさ。
RZ50と違って年式で差が大きいのがR1-Z
初期型フルノーマルはちょっと遠慮したい。
RZ250でもそうなのだろうか?
えーーっとダークキャンディオレンジです。
サフ、黒、キャンディ用ラメシルバー、キャンディオレンジ、クリアの順
素人にしてはまだ、、
断片的な写真なのは前回の記事同様ですね。
転がってるのはRZ50につけたTW200の強化スプリング付きサスだ。
これいいよ。TZRスイングアームだと結構ロンスイになるので。
まあ、偉そうなこと言っても、こけたりしたらとっても大変な身体の自分は
なかなか速い運転に躊躇するのだが。
安全に速く走るってどうやるの?(笑)
2019/7/25
最高に気に入っている。
俺はあと何年生きるのだろうか。
まずは来週の手術で足を治して、仕事に復帰して、
人間らしい生き物に戻らなければ。
またここに記録が残せますように。
ヤマハのビラーゴさん
2017年、私は1月10日で会社から休みを頂き、入院生活が始まった。
長い、長い時間だった。
3~4か月くらい病院にいたかもしれない。
その間に私は一度食事や風呂、
歩行といった事が困難なレベルまで筋肉を失ってしまっていた。
杖では足りず車椅子に頼ることもあった。
幸い強力な薬で筋力の破壊を食い止めたのだが、
すでにデクノ棒であった。
それでも私には、バイクが諦められなかった。
仕事を辞めざるを得なくなり、
アパートも引き払った私には、居心地のいい場所などなく
入院中ずっと作戦を練っていた。
亡くなった祖父の残した家のガレージ。
左官道具、釣り道具、大量のごみにあふれていた。
(この写真も少し片づけた後。)
「ここをどうにかしてやろう」
よたよたとヒザには筋力を補うサポーター。
顔には免疫力低下の対策でマスク。
私は一人でこれに取り掛かった。
3日目あたりで「やっぱ辞めようかな」っと諦めそうになった。
あまりに多いしキリがない。体はまるで勝手が違う。
「これどうやって捨てたらいいんだろう」そういったモノばかり出てくる。
お金をとられたり、別のとこに持って行ってくれと断られたり、
全てが初見で何分苦労した。
数日後
「壁が見えた!」
それはもう嬉しかった。右端から整理して、
ようやく左端まで分別が終わった時の写真だ。
あとは、捨てるだけ。
写真はなんてあっけなく時の流れを感じさせるのだろうか。
と今まさに感じる。
一か月かかったか?
夢の平面図。そりゃもうゴミさえ無くなれば、なんてことはない。
まだこの時もヒザにはサポーターが巻いてある。
動作がヨボヨボの爺さんだったが、作業は出来ない事はなかった。
医者曰く若さであると。
市販の門は高価であるが故に、自作を余儀なくされた。
バイクのためには門がなければ守れないだろう。
作業台も廃材からDIYだ。
かなり形になってきた。
準備は整った。と知り合いに連絡をした。
こいつを知り合いから買い取った。3万円。
ヤマハ ビラーゴ250 (XV250)初期型だ。
100キロは離れた場所まで行き、私のミニバンに乗せて、うちに連れて帰った。
クルマから一人で降ろすのはそれはもう大変だった。
載せたのは知り合いだった。
みてわかるかもしれないが、筋力の都合で立って解体が出来ないのでミカン箱は
ゴミ捨てに続いて大活躍してくれた。
良い景色だ。大きなエンジン。
フレームの錆止めから始めた。
合格といえるパーツになったモノから順番に取り付けていった。
削って、磨いて、塗って、ヤフオクで競り落として、
とにかく金はたくさんあるわけではないのだから。
色々売って繋いだ。
もう大興奮だ。無駄にまたがって夢を膨らませた。
まだミカン箱は必要。
キャブレター取り付けるのに何時間かかっただろうか。
震える手で力が入らないのに、さらに取り付けにくいとくれば、、
相当しんどかった。
ここからの景色が最高だった。
毎日カップ麺ばかりだったが、こいつのためなら何でもよかった。
だが残念ながら、私はここで再入院することになった。
もとより予定されていたのだがずいぶん悔しかった。
一か月後
退院して早々作業は再開した。
形になった!!!
これはやばい!かっこいい!!!
生きてきてまたこんな感動を味わえるとは。
死んだ目は生き返りつつあった。
初めてこのバイクがお日様の光を浴びた瞬間だ。
夜は寝落ちするまでこの写真を眺めた。
いよいよ乗れるぞ!っという数日前の写真だと思われる。
昆虫採集して遊んでいた。
何も捕まえられなかった。来年こそ!!!!
そしてサポーターを卒業した!大切に保管してある。
これだけ動いたんだ。ゆっくりだがカップ麺でも筋肉はできた。
(プロテインも飲んでいた)
公道デビュー初日の記念撮影!
特に意識して無かったので服装が酷い(笑)
紅の豚か、、(笑)
そりゃもう毎日乗って、毎晩ヘトヘトになって
微調整しながらレッカーも経験して走った。
一つ微調整したくても、乗ってたいから思い立ってもその日は一日走った。
だから仕上がるにはまあまあ時間がかかった(笑)
タイヤも5年物のビンテージで怖かった。
タイヤ交換したときの写真だ。
もちろん自分でやった。
これは相当体にきた。
なんたって夜までかかった。
必ず夜には家路につくよう意識していたが、この日が初だったろうか。
何日くらい体にダメージが残っただろうか、、汗
こうしてこいつと共に筋力を取り戻し、
気づいたら元の筋力まで戻ってしまった。
本当に驚いている、私の筋肉は全て2017年製といっても過言ではない。
最高の夏をありがとう。
そしてもっと先に予定していた車両が手に入ってしまった。
夢はまだ終わらない。
生きている限り。
諦めない限り。
なんとなく叶いそうな希望を持ち続け、まだ私は病気に抗っていく。
治るわけではないこの病気に。
いままた入院の影も出てきている。
主役の薬は短期決戦で後釜の薬を育てていたのだが、効き目が弱かったらしく
他の薬の投与が始まった。
この生活はもう少し続くようだ。
けど気持ちは強くなった。
頑張る。
最後に
ヤマハさんありがとう。
ルネッサじゃないけどビラーゴ凄く気に入ってるよ。
ヤマハのRZ50さん
時にして約3年程
この一文目でもう可笑しな気分だ。
もっと乗ってる気がする。
そういうものなのだろうか。
およそ22歳で自動車の免許をとった
先輩からタダでスクーターを頂いたが
物足りず一ヶ月ほどで飽きてしまった。
速いのが欲しかった。
それがYAMAHA RZ50だった。
走行距離8000キロの中古車
ネットで置いてある店を調べ
ドキドキしながらこの子には出会った。
会った5分で買った。後に引けなかった。
納車して一人団地内をビィーっと練習
おそらくバイク好きそうなおじさんが
暖かい目で見守ってくれていた。
公道デビュー。
これは帰路だ。
そして最高だった。
バイク屋がガソリンをケチっていて
ガス欠になり友達に応援を頼んだ事がなつかしい。
(オイル缶一本サービスしてくれと頼んだせいだろう)
これは半ズボンで運転したせいでハチに刺された日だと思う。
もう二度とそんなヘマしない。
釣り仲間はバイク仲間だった。
皆大きいバイクで羨ましかった。
けどさすがツーストバイク
自分にはこれくらいでいいとも感じていた。
元々ピカピカなくせに
磨いたつもりで洗車。
記念撮影。
写真は時系列があやふやしている
これはミラーが両方欲しくて
買い直して付け替えてある。
フルフェイスヘルメットもたしかこの日に
ホームセンターで買った。
何度も何度も走った。
いつも夕方と深夜。
今はとてもできない。
大きなバイクの中に自分がいるのが
面白くて撮った。
今見るとすごい景色だ。
こうして純正を眺めているのにちゃんと自分のバイクだって
思うのは面白いことだ。
違うバイクを見るとやはり少し違って見える。
江田島へ友達に会いにも行った。
RZなら余裕だ!なんて思った。
宮島にだっていったぞ!
スマホ片手に鹿を取りながらRZと散歩したぞ!
カスタムを教わった。
メッキモール。
ここから外装への関心が高まって(暴走して)いった。
これも愛、、
エイプシートを移植してもらった。
Z2テールをつけてもらった。
RZもその変化はその''目''で感じていた。
すっかり酔いしれていた。
そうして若者バイクへと凌駕していったRZ
うーんこれも愛。。
やりきった感からか
もっと色々なことがしたいという探究心からか
ここから第2章のカスタムが幕をあけた。
エイプタンク、エイプ純正フェンダー
青を脱いだ。
当時は青が嫌だ。そんな気分なだけだった。
ニャマハである。
即席ステーが折れ曲がっている。
だいぶやれてきた。
ああいう扱いすると2年でこうなるのだな、、
この時代は車ばかり乗って
ほとんど乗らなくなっていた。
けど乗りたい時に動いてくれるいいやつだ。
しかしツーリングはほとんどしてない。
地味に月日が流れた。
ここで環境に変化が訪れた。
バイク熱が再沸騰!!
チャンバーを変えたりフェンダーを変えたり!
じゃーん!!
可愛い!!!
バイクは!!
最高だ!!!!
しかし
ここで私は一生つきまとう難病をかかえた。
入院。
筋肉が破壊されていく病気だ。
抗SRP抗体陽性ミオパチーという
非常に珍しい病気
もう少し手遅れだと
既にこのブログすら打てないくらい
筋肉をうしなっていた
これからどうなるかは分からない
けどこのままだと後悔しかない
せめて中型バイクに。
こんなに思い出をくれたヤマハのバイクに
もっと乗りたい。
入院前はずっとバイクと過ごした。
入院の暇つぶしはずっとバイクが頭の中にある。
ライテクや全車図鑑や
情報誌や漫画やカタログ
そして一台のバイクと出会う。
ヤマハ ルネッサ
これがまた一目惚れだ
25歳としての。
エンジン、外装、メーター、ホイール、
サスペンション、マフラー、テール、なにひとつ不満がない。
今はこいつに会ってみたい。
正直まだRZ50に
いやずっとRZ50に乗っていたい。
200ccのエンジンでも積んで
ずっとずっとこいつに跨りたい。
けどそんなことできないし
他のバイクに乗るべきなんだと思う。
もちろんRZ50を手放すつもりなんてサラサラない。
とにかく退院したら
ルネッサに会ってみたいなあ、、、
ヤマハ様
どうかこれ以上僕の筋肉が無くならないように見守っていてください。
あと退院したら速くRZ50に会いたいなあ。
ちゃんと運転できるのかなぁ。
かわいいのう。